子どもたちの読書の時間: 2 分
前の時代では、神様自身が地球上を歩き、土の実りは今よりはるかに多く、麦の穂は50とか60ではなく5~600も実がついていました。また、穂は茎の一番下からまさに一番上まで伸び、茎の長さに比例して穂の長さがありました。しかしながら、たくさん作られ、暮らし向きがとても楽になると、人間は神様からもらっている祝福をもう大事にしなくなり、無関心で注意しなくなるのです。ある日、一人の女が麦畑を通り過ぎていたとき、わきを走っていた小さな子供がせきにおち、母親の仕事着を泥で汚しました。これにたいし、その母親は美しい麦の穂を一握り引き裂いて、それで仕事着を拭きました。神様は、ちょうどそのとき通りがかったのですが、これを見て怒り、言いました。これから先は麦の茎にはもう穂をならせない。人間はもう天の贈り物をもらう資格がない、と。まわりで見ていた人たちは、これを聞いておそれいり、膝まづいて、お祈りしました。たとえ人には資格がなくても、それがなければ飢え死にしなくてはいけない無実のひよこのために、どうかいくぶんかは茎に残してくださるようにと。神様は彼らの苦しみを予見し、憐れみをもち、その要望をききいれました。それで穂は今あるように残されました。

背景情報
解釈
言語
このお話は、グリム兄弟のメルヘンにある「麦の穂」という物語の背景情報です。この物語は神話的な要素を含んでおり、神様が地上を歩いていた時代について語られています。もともと麦の穂は非常に豊かで、茎全体にわたって何百もの実をつけていたとされています。
しかし、豊かさに慣れた人々は、神の祝福であるこの恵みを粗末に扱うようになりました。物語の中で、ある女性が子供の汚れた服を拭くために、麦の穂を無駄にしてしまい、これを見た神様が怒り、人間にはもはやこのような恵みを与えないと決めます。
その後、人々は神様に許しを請い、少なくとも生きていくためには麦が必要であると訴えます。神様はその願いを聞き入れ、現在のように穂が少しだけ残る状態にすることを決めました。この物語は、自然や神からの贈り物を大切にしないと失ってしまうという教訓を伝えています。
このグリム兄弟のメルヘン「麦の穂」は、神話的な要素と教訓的なメッセージが込められた物語です。この物語では、かつては麦の穂が非常に多くの実をつけ、人々の生活は豊かであったことが描かれています。しかし、人々がその豊かさに対する感謝を失い、無関心になると、神様が怒り、豊かさを奪う決断をします。物語の中心には、人間が持つべき「感謝の心」が描かれており、それを失うことの結果として、神様の怒りに触れます。
子供を拭くために美しい麦の穂が無造作に使用される場面は、人間の無関心さや、神様からの贈り物に対する冒涜を象徴的に示しています。この行動を見て神様は、豊かな麦の穂を与えることをやめる決断をします。しかし、周りの人々の祈りに対して神様はある程度の憐れみを示し、完全には豊かさを奪わず、今の形で麦の穂を残します。
この物語は、人間が自然や何かしらの恩恵を受ける際に、それに対して適切な感謝の意を持つべきであるという教訓を含んでいます。また、無関心や不注意がいかにして失望や損失を招くかを考えさせられるお話です。
「麦の穂」というグリム兄弟の物語は、一種の教訓話として、古代の神話的な要素と倫理的なメッセージを含んでいます。この物語は、神の祝福がどれほど重要であるか、またそれを当然のものと考えることがいかに危険であるかを示しています。
まず、物語の冒頭で描かれるのは、豊かな実りで満たされた理想郷のような過去です。ここでは、麦の穂が今よりもはるかに多くの実をつけていたと述べられています。この描写は、神が直接地上を歩んでいた時代として、神の恵みによる豊かさを象徴しています。
しかし、人々がその神の祝福をぞんざいに扱うようになったとき、物語は転機を迎えます。ここで特徴的なのは、一人の母親が子供の泥を美しい麦の穂で拭くという場面です。この行為は、神の恵みを軽視し、感謝の気持ちを欠いているということを象徴しています。それに対する神の怒りは、物語全体を通じての重要なモラルを引き出します。
最終的に、神の罰として麦の穂は少なくなりますが、周囲の人々の祈りにより、一部の恵みは保たれます。この結末は、人間の罪深さを認識しつつも、神の慈悲深さと赦しを示唆しています。
この物語は、感謝の気持ちを忘れず、与えられた恵みを大切にすることの重要性を教えています。同時に、過ちがあっても赦しを求めることで、希望が残されるというメッセージも含まれています。総じて、グリム兄弟の「麦の穂」は、神話的な要素と道徳的な教訓を通じて、読者に深い洞察を与える物語となっています。